モノ作り礼賛とナショナリズム


今日は、ある交流会に参加してきました。
名刺交換等、個別の交流が行われた後、司会者を中心としてオープンな議論が行われました。年配の人の参加が多い交流会で、大学の先生や企業OBが多くいる会でした。当初、いろいろな意見が飛び交っていましたが、会場の論調は次第にモノ作り礼賛になっていきました。


「先人達は、素晴らしいモノを作ってきた」
「今の子供達はブラウン管を知らない」
プロジェクトXを見れば、みんな感動するでしょう!?」
「男の子は、本来手を動かしてモノを作ることが好きなはずだ」
「子供の理科離れをどうにかしなくてはいけない」


昔のモノ作り気概さえ復活すれば、日本の経済力は復活し、将来も安泰といわんばかり。しかし、モノ作りを愚直に進めてきた結果が、この経済衰退なのではないのでしょうか?「良いモノができれば売れる」という、マーケティング不在の職人気質が、ipodEeePCの台頭を許したのではないでしょうか?考えるべきは、モノ作りの向こう側なのであって、技術をどうビジネスに結び付けていくか、なのだと思うのです。そんな気持ちで聞いていると、私には、おじさま方がノスタルジーにひたってるとしか映りませんでした。


なかには、「モノ作りは他の国にはできない。日本人は有能な民族だから。」なんて言う人も・・・


ここにきて、はたと気がつきました!!
そうか、モノ作り礼賛は、形を変えたナショナリズムなのだと。日本は、政治や歴史に絡めてナショナリズムを語るのは、タブー的な雰囲気のある国です。しかし、ナショナリズム的な感情は、誰しも多かれ少なかれ持ち合わせています。その感情を他人にはばかることなく発露するために、彼らは自分達の持つ愛国心を、経済の話にすり替えて語っているのではないかと思うのです。


ナショナリズム愛国心も、それ自体は悪いものではないと私は考えます。それどころか、自分の生まれ育った環境や、自分の周囲の人々を愛する気持ちが生まれるのは、ごくごく自然な人間心理だと思います。しかし、その感情に左右されて、ことの本質を見誤ってはいけないと思います。過度な「モノ作り礼賛」には、その危険性があります。


将来の日本経済を考える上で、技術の有用性に関しては私も否定しません。ですが、必要なのは「昔のモノ作りに帰る」ことではなく、「新しいモノ作りを作る」ことだと思います。